井上洋治神父ゆかりの地を訪ねる旅 ~第3回 法然上人誕生の地へ・岡山の誕生寺と菩提寺~

【井上洋治神父著作より】―岡山の地における法然を慕った人生のあしあと

 

お待たせしました!このたび2017520日付で『井上洋治著作選集』第8巻が刊行されました!

この第8巻に入っている『法然―イエスの面影をしのばせる人』に関連する

井上神父ゆかりの地として、岡山の誕生寺と菩提寺への旅へとご案内します。

『井上洋治著作選集』第8巻 刊行!(日本キリスト教団出版局 2017520日発行)

 

 

■法然誕生の地へ

 

 

 私が法然上人誕生の地に建てられたという誕生寺を訪れたのは、もう二十年近くもまえのことになるだろうか。

 

誕生寺駅前の旅館にでも泊まって、ゆっくり拝観してみたいと思った私は、岡山での仕事をはやめにきりあげて津山線にのりこんだ。晩秋のそこはかとない淋しさをただよわせている丘陵を車窓にみながら、旭川の流れを一時間ほどさかのぼって列車は誕生寺駅についた。法然上人ゆかりの地ともなれば、多少は駅前の賑やかさもあるだろう、ぐらいに想像していた私は、駅に降りてびっくりしてしまった。駅員のいない無人の駅だったのである。切符をいれる集札箱だけが、ぽつんと改札口のところにおかれていた。降りた客は私一人である。現在はどうなっているか知らないが、そのころは閑散とした駅前には飲食店一つなく、切符を売ってくれる雑貨屋が一軒あるだけであった。

(『井上洋治著作選集』第8巻『法然・風のなかの想い』日本キリスト教団出版局 2017520日より 以下同)

 

 

1980(昭和55)頃、井上神父が53歳の頃でしょうか。

 

井上神父は、岡山での仕事を終えたあと、1人で誕生寺を訪れています。

 

 

 

■誕生寺にて

 

 

 

境内には、上人がつかわれたといわれている「産湯の井戸」や上人お手植えの公孫樹などがあって、長い歴史を物語っているかのようであった。上人のお声がききたい、そう思いながら私は、じっと晩秋の静寂に耳を傾けていた。

 

 

 

■法然の生まれと父の遺言

 

 

 

法然は一一三三年、現在の岡山県久米郡(=現・久米南町・筆者注)に、押領使、漆間時国の一人息子として生まれている。押領使というのは、地方の治安維持にあたる役職であるが、父は法然が九歳のとき、仲違いをしていた明石源内定明という人物に夜襲をかけられ、非業の最期をとげる。そのとき、時国は死の床にあって、一人息子の法然に次のように語ったと伝えられている。

 

  敵人を恨むることなかれ。これ偏に先世の宿業也。もし遺恨をむすばば、そのあだ世々につきがたかるべし。しかじ、はやく俗をのがれいゑを出て、我が菩提をとぶらひ、みづからが解脱を求には。(『法然上人行状絵図』第一巻)

 

 

「お前は決して敵をうらんではならない。これは先の世から定められている業であって、私が受けなければならないものなのだ。もしお前が敵をうらんでこれを討てば、敵の子供はまたお前をうらんで討とうとするであろう。そうすれば、このうらみによる血の争いは絶えることなく続くこととなろう。お前は一日もはやくこの憎しみと争いの闇と修羅の巷を離れて、私の冥福を祈り、ゆるしと光との境地に入ってくれ」

 

 これが父時国の死の床での、息子法然への遺言だったのである。

 

 

■菩提寺で過ごした法然

 

 

 

それまでの恵まれた境遇から、一夜にして孤児となった法然は、時国邸より四十キロほど北にあった、叔父観覚(かんがく)の菩提寺にあずけられることとなる。恐らくは、定明にみつけだされ、殺されるのを避けるため、菩提寺にかくまわれたのであろう。しかしその天才的な宗教的素質をすでにその頃にして認められはじめていた法然は、四年後十三歳で、比叡山の西塔北谷の源光(げんこう)のもとにおくられる。そして更に二年後の十五歳のとき、源光は法然を当時一代の碩学といわれていた皇円(こうえん)のもとにおくった。

 

 

■「日本人の心」を求めて法然へ

 

 

 

七年半の西欧の修道院生活を打ちきり、昭和三十二年の末、フランスから帰国した私は、自分の血の中に流れている「日本の心」を意識化してみようと思い、時間をつくっては、奈良や飛鳥を散策し、和辻哲郎、鈴木大拙、小林秀雄などの著作に読みふけった。そんなある日のことである。働いていた学生センターの近くの、とある本屋で、ふと一冊の書物が私の目にとまった。「日本人の精神史研究」の第三巻で、『中世の生死と宗教観』と題された亀井勝一郎の著作であった。

 

その後、むさぼるように読みふけっていた私は、「宗教改革への道」という章に出会って、まさに棍棒で頭をなぐられたような衝撃をおぼえたのであった。

 

これが私が法然と出会った最初である。

 

 

■「南無アッバ」と法然

 

私は毎日南無アッバをとなえているキリスト者であって、南無阿弥陀仏をとなえている念仏行者ではない。その意味では、私には法然を正面から論じる資格はないかもしれないが、しかしただ一筋にキリスト道を生きぬいてきた者として、仏道に生命を賭けて歩んだ法然の後ろ姿に憧れ、魅せられているわけなのである。そしてその法然の後ろ姿は、まさに私にとって、師イエスの後ろ姿をしのばせるものでもあったのである。

 

 

井上神父が誕生寺を訪れたのは晩秋でした。その頃は誕生寺のいちょうも散り、寂しさが漂っていたと思われます。

 

今回は、いちょうが若葉を吹き出した季節(20174月下旬)に訪れましたので、春らしい写真となっています。

晩秋に訪れた井上神父の想いにつきましては、みなさまの想像によって補っていただけると幸いです。

 

 

■井上神父が眺めたであろう津山線沿線の風景

 

井上神父の記述には、「旭川の流れを一時間ほどさかのぼって列車は誕生寺駅についた」とありました。

 

 

津山線は、一級河川・旭川に沿っており、このように川が近くに見える場所もあります。この日は、二羽の白鳥がゆったりと泳いでいました。

 

 

■津山線・誕生寺駅にて電車通過

 

■井上神父が降り立った誕生寺駅の現在

誕生寺駅では、井上神父が「駅員のいない無人の駅だったのである。切符をいれる集札箱だけが、ぽつんと改札口のところにおかれていた」と記していた、現在もそのとおりの様子でした。

 

 

■誕生寺

 

■「上人お手植えの公孫樹」

 

 

『井上洋治著作選集』第8巻が発行される前でしたので、『法然―イエスの面影をしのばせる人』(筑摩書房 2001年)を持参し、記念撮影。

 

 

■勢至堂(法然上人ご両親御霊廟)

 

■産湯の井戸

 

勢至堂に入っていくと、奧に「法然上人 産湯の井戸」がありました。

 

 

誕生寺の裏手から歌碑公園へ小川のせせらぎ

 

■歌碑公園

 

晩年の井上神父が住みたいと切に願った場所は、ここ誕生寺の地でした。

誕生寺の裏手には、歌碑公園があり、多くの人の歌が刻まれた碑があります。

せめて、井上神父の言葉を刻んだ碑をここに建てたいものと願っています。

 

次に、菩提寺を訪れました。

 

ここ菩提寺については、法然が母方の叔父観覚のもとで、9歳から13歳までかくまわれ修行をした場として、井上神父が著書に書いています。

法然は菩提寺での学びのなかで、叔父観覚にその並ならぬ才を認められ、比叡山におくられるまでの間、信仰の基盤をこの地で育みました。

 

井上神父が著書のなかで、死の床にある父から息子への遺言を、

お前は決して敵をうらんではならない。これは先の世から定められている業であって、私が受けなければならないものなのだ。もしお前が敵をうらんでこれを討てば、敵の子供はまたお前をうらんで討とうとするであろう。そうすれば、このうらみによる血の争いは絶えることなく続くこととなろう。お前は一日もはやくこの憎しみと争いの闇と修羅の巷を離れて、私の冥福を祈り、ゆるしと光との境地に入ってくれ」

と、井上神父なりにかみ砕いた言葉で示してくださったことが思い起こされます。

 

 

井上神父は、訪れていない菩提寺ですが、ここは誕生寺から北へ40キロほどで、自動車ではないと訪れにくい場所です。井上神父にお見せしたかった菩提寺と大いちょうが待つこの地へ、ようやく着きました。

 

 

 

■菩提寺

 

■菩提寺の大いちょう

法然が9歳の時、実家のある現在誕生寺の建っている地から菩提寺まで、歩いて移動した際、山のふもとの阿弥陀寺から杖にして持ってきたいちょうの木を、ここ菩提寺の地に差したところ、この大いちょうになったという伝承があります。

 

また13歳の時、比叡山に旅立つ際、杖にしていた菩提寺のいちょうの枝を、道中立ち寄って別れを告げた実家の地に差したのが、先の誕生寺の大いちょうとして繁茂したといわれています。

 

 

井上神父は、これらのことを想いながら、誕生寺の大いちょうを眺めていたことでしょう。

 

以上、今回は、動物好きの井上神父のことを想いながら、我が家の愛犬ポピーを連れての旅でした。

 

 

記事・写真:山根知子